古 家 正 暢 Masanobu FURUYA
TICADⅣの開催にあたり「アフリカ2008キャンペーン」が開いた「アフリカ・エッセイコンテスト」において、私のエッセイが『英国大使賞』をいただくという光栄に浴しました。その副賞として、5月3日から9日間のエチオピア・スタディツアーに参加させていただき、さまざまなアフリカの実相を視察してきましたので、ここに報告させていただき感謝の意の一端としたいと思います。
1 ステレオタイプのアフリカからの脱却
アフリカと聞いて、社会科教師の私がまず思い浮かべることは、貧困・飢餓・旱魃・砂漠化であった。生徒には多面的・多角的にとらえなければならないと言いつつ、その実、私自身がアフリカを多面的にとらえていないことを、今回のスタディツアーを通して思い知らされた。
たとえば…
「アフリカは決して暑い所ではなかった」
アジスアベバ空港に降り立った時、肌寒さを感じた。日本よりも南に位置するとはいえ、標高2700mもある高原であれば、涼しいのは当然であり湿気も少なく大変心地良かった。
「原油高にもかかわらず交通渋滞するアジスアベバ」
日本とガソリン価格は大きく変わらないにもかかわらず、燃費の悪い中古車が氾濫していた。どこに高いガソリンを購入する経済力が潜んでいるのだろう。大量の排気ガスを吐く中古車の列と荷物を背に負ったロバとの共存に戸惑いを感じた。
「高い学習意欲と熱い心をもった子どもたち」
カラユ牧畜民が通学する学校で、教え子が作詞・作曲した“Under the same sky”を披露した時のこと。「どんなに強く 空に願っても」を“donna ni tsuyoku sora ni negattemo” とローマ字で追っていった時の子どもたちの瞳の輝きが忘れられない。現地の学校では音楽の授業は全くないという。それも初めて接する日本の中学生が創作した曲であるにもかかわらず、真剣にカセットテープの音に集中して少しでも大きな声で歌おうとする。初めて聞いた曲をローマ字日本語で必死に追う彼らは、もしかすると“Under the same sky”と考える日本の中学生の想いに必死で応えなければならないと考えたのかもしれない。子どもたちの熱い心に感動した。
「決して危険なところばかりではないアフリカ」
帰宅した時、小学6年の息子は「お父さん、お帰り! 元気…? 手は大丈夫…?」と出迎えてくれた。私は「元気だよ。手も足もちゃんとあるよ」と答えた。その後、私に抱きついたかと思うと「良かった、良かった。」と言いながら涙を流していた。「民兵に襲われなかったんだね。良かった、良かった。」と言う。なぜ、このように息子は心配したのか…?
今年2月にアフリカの授業をするにあたり、DVDで『ホテル・ルワンダ』『ルワンダの涙』『ダーウィンの悪夢』『ブラッドダイアモンド』などを私が見ていたので、アフリカ=危険なところというイメージを息子なりにつくりあげてしまったようだ。息子は私が民兵に手斧で腕を切り取られたらどうしようと心配していたそうだ。
ということは、少なからずこのようなアフリカイメージを抱かせるような授業を私は展開してしまっていたのではないかと反省した。改めてこのようなアフリカに対する先入観・思い込みを打破するような授業を今後展開しなければならないと思った。
2 水・水・水 そして 水
JICAの佐々木所長・FRGの白鳥さんが強調されていたように、エチオピアにおける支援活動は、「水・水・水 そして 水」といっても過言ではないと思った。風化が進み、水分も養分も蓄えられなくなっているアフリカの大地。農業の生産性が著しく低いエチオピアの大地にあって、日本の支援として、何ができるのか、何をしなければならないのか。
アワッシュ滝の水量を見たとき、何とかならないものだろうかと思った。あの轟音をあげて勢いよく落ちる茶褐色の濁流をうまく活用することはできないのだろうか。また、大型重機で掘削すれば地下水が得られるのであれば、井戸を提供することはできないのだろうか。フッ素が多く飲料に適さない湖の水から、フッ素を取り除くことはできないのだろうか。日本の支援を「水」に焦点化して提供することはできないのだろうか。貧困・飢餓から脱却するためには農業の振興以外にはないのであるから、日本の支援は「水」の確保を第一優先とすべきであると強く感じた。
3 ODAの減額は本当に「しかたない」ことなのか
日本のODA予算は1997年をピークに年々減少している。対GNI比率も国民一人あたりの負担額も諸外国に比べて低い。少子高齢・借金大国:日本にあっては、「しかたない」ことなのだといわれるかもしれない。しかし、「しかたない」という語は思考停止をもたらすコトバだ。思考停止からは何も生まれない。今こそ改めて問う必要があるのではないか。ODAの減額は本当に「しかたない」ことなのかと。アフリカの実相の一端を知って、その思いを一層強くした。
現に私は「英国大使賞」ということで、豊かな国:日本にありながら、英国大使館の支援で今回のエチオピア・スタディツアーに参加する機会を得た。英国は極東の一日本人である私にアフリカ理解を深めさせるために費用を捻出した。この英国の姿勢をどのように理解すればいいのだろう。英国だってお金が余っているわけではないはずだ。「しかたない」と思考停止しないところから生まれた配慮であると深く感謝したい。
また、人づくりはお金がかかる割にその成果が見えにくいものであるということも再確認しておかなければならない。その成果は数値で表しきれないものである。だからといって、容易に減額することのないようにしなければならない。現地の最前線で農民支援プロジェクトに挑む白鳥さんの活動を知り、その思いを一層強くした。思考停止の「しかたない」減額に強い異議申し立てをするものである。
4 本当の幸せとは何なのだろう
「幸せの公式」なるものがあることをご存じだろうか。「幸せ=結果/欲望」という公式。 カラユの牧畜民の自宅を訪ねた時に、本当の幸せとは何なのだろうと強く感じた。土壁に藁ぶきという教科書にも紹介されているような伝統的なアフリカの住居だ。当然電気はないので、明るい所から急に中へ入った瞬間は真っ暗闇で、何が何だかわからなかったが、台所もあり藁の上に羊の革を敷いた居間もあった。家財道具で目立つものといったら、水汲み用の黄色いポリタンクのみであった。これをもって貧困の極みと表現することは容易だ。しかし、屈託なく私たちを受け入れ、一緒に笑顔で写真撮影に応じる彼らは本当に貧しいのだろうか。私たち日本人は文明人であることを自負しているが、余計なものを持ち過ぎてはいないだろうか。「幸せの公式」の分母である欲望が大きくなりすぎてはいないだろうか。欲望が大きすぎると、いつまでも幸せになることはできないということを改めて痛感した。
5 TICADⅤを迎えるために
これから、いよいよTICADⅣが始まるという時に、5年も先のことをいうと鬼が大笑いするかもしれない。しかし、最後に日本政府を中心とした関係各位にお願いしたいことがある。
私にエチオピア・スタディツアーの機会を与えてくださったのが、特定非営利活動法人 TICAD市民社会フォーラムであったことに鑑み、ぜひ、5年後はアフリカの市民社会を代表する団体が共催者として名を連ねるようご努力いただきたいと強く願う。市民と市民の草の根の連帯ほど強いものはないと確信しているから。私も「市民性」をはぐくむ教育を推進していきたいと考える。
* 最後になりましたが、お世話になった全ての方々に、心より御礼申し上げます。「大変貴重な経験をさせていただき、とても良い勉強になりました。どうもありがとうございました。」
天使の国――エチオピアにて
小山裕子
結婚してからの十年というもの、「死ぬまでに一度はアフリカの地を踏んでみたい」と思い続けてきた。このたび賞を頂いたことで願いがかなった。本当にありがたいことだ。
今回のエチオピア訪問ではこれまで知ることのなかったアフリカの現状を見聞することができた。いくつか思いついたことを書いてみよう。
【天使の国】
エチオピアはエチオピア正教と呼ばれるキリスト教の国だ。現地では首を切られた聖者ジョージが、翼が生えて首だけの天使となったという伝承があって、現地の博物館などでその天使となった宗教画が飾られていた。
そんな天使が崇められているせいなのか、人々は非常に親切だった。首都アジスアベバで、商店に買い物に行ったら目当ての品物が見付からなかった。品物はないのかと店の人に尋ねたら「うちには売っていないので」とわざわざ店を出て、別の店まで案内してくれた。
レストランでもこんなことがあった。トイレに行こうとしたら、場所は店の外であいにく猛烈な雨。そうしたらボーイさんが私と一緒になって相々傘でダッシュしてくれた。日本だったら「もう少し雨が小降りになるのを待ちましょう」という場面だったろう。
その食事は何人で食べても常に大皿に乗って料理が出てきた。日本の感覚ならお茶碗ではなく、おひつごとご飯が食卓に登場するイメージである。現地の人に聞くと、食べるものを分かち合う精神の現れなのだという。
貧しさは人の心から余裕を奪う。私はこれまで人間とはそんなものだと思い込んでいた。しかし、エチオピアで認識を改めた。確かに国は日本よりずっと貧しかった。しかし、旅行中にエチオピアの人たちと接していて、ぶっきらぼうな態度を感じる場面はまったくなかった。この国には本当に天使がいるのではないかと感じた。
【女性たち】
エチオピアの人たちによると、「この国はロバと女性でもっている」のだそうだ。首都のアジスアベバを離れるとロバが水や穀物を載せて運搬に活躍していた。
女性たちも活躍していた。エチオピアの農村では夫である男たちは稼いだお金をお酒などにすぐ使ってしまうが、妻である女性たちは本当によく働いて家計を支えていた。
案内していただいた農家の女性は、実に工夫していた。例えば、現地の支援団体からの指導のもと、農産物を品種改良して少しでも収穫量を増やそうとしてみたり、現地の在来の牛と乳牛を交配したりして、「エチオピアの風土に耐えつつ、たくさん乳を出してくれる牛」を育てているのだという。
そんな女性の置かれている立場は十分とは言えない。特に現地の社会でも厳しい立場に置かれている遊牧民では、短大などに進むケースは大変少ないという。
現地では一夫多妻制が認められているが、ここにも女性の弱い立場が浮き彫りになっている。拡大しているエイズの治療に「若い女性を妻に迎えることが役立つ」という迷信が一部の男性に広がり、少女が無理やり結婚させられそうになるケースもあるという。
私が会った現地の農家の女性は、みな真剣な表情をしていた。エチオピアの女性の社会的地位が向上すれば、きっとこの国はもう少し豊かになるだろう。彼女の大きくて温かい手を握ったとき、そんなことを思った。
【環境】
私は日本から輸出される中古車をエッセイの題材に選んだ。確かに現地では多くの日本製も含めた中古車を見た。
エチオピアを訪れる前、首都アジスアベバは高地で空気のきれいな街ではないか、と漠然としたイメージがあった。しかし、その先入観は見事に打ち砕かれた。私がかつて観光で訪れた都市、例えば中国の上海やタイのバンコク、マレーシアのクアラルンプールなどと比べても、アジスアベバの空気はひどく汚染されている気がした。私たちの国を旅立った中古車は確実に現地の環境を損なっていると感じた。
ならば、我が国が中古車の輸出規制をすれば済むのか。そうではないようだ。現地のガイド役の人は諦め顔でこう言った。「日本から中古車が輸入できなくなっても、エチオピアは別の国から車を輸入するでしょう」。事態は単純ではないのである。
日本は環境対応の車を作る技術では世界一だ。私はこの技術を世界で共有すべく、日本の自動車メーカーが各国のメーカーに模範を示せないか、と思う。エチオピアをはじめとする主要なアフリカの国々は新車を買えるほど経済的な余裕はない。それなら、せめて環境負荷の少ない中古車を世界からアフリカに供給できるように、日本がリードしていって欲しいと願うのだ。
【終わりに】
「一度アフリカの水を飲んだ者はまたアフリカに帰ってくる」といういわれがあるそうだ。本当にそうではないかと思う。アフリカで見たこと、感じたことを人に伝えずにいられない。旅行中から書き始めた備忘録のメモは二十ページを超えて、まだまだ思い出すことが次から次へと湧き出てくる。これからもアフリカのことを主婦の目線で、人々に伝えていきたい。そして、次は家族でこの地を訪れたいと思う。
今回、非常に多くの方々のご配慮で貴重な体験をさせて頂いた。最後になりましたが、心よりお礼申し上げます。
小山さんの受賞作品はこちら
]]>学校教員
「相互支援の実現」
(原文のまま掲載しています)
アフリカ、そこはあまりに遠い。私が現地に直接赴いて現況を知るにしても、直接的な支援をしようと考えても、正直なところ、時間と資金がない。私と同様に感じる日本人は数多いはずだ。では、私たち日本人にいったい何ができるだろうか。
私は、救済とか援助という言葉に大変抵抗がある。どこか「上から下へ」という思いが見え隠れしてしまうからだ。もちろん、そんな気持ではなく、純粋に救済とか援助を考えている人が多いことも確かだ。私が今までしてきた「募金」という行為も自分では純粋なものであったと思う。しかし、心のどこかに「上から下へ」という気持ちが絶対になかったか、と言うと、首をかしげざるを得ない。
私は小学校の教師である。6年生の社会科学習「ともに生きる地球」という単元で、ピュリツァー賞に輝いた故ケビン・カーター氏の「ハゲワシと少女」を導入であつかった。少女が息絶えるのを彼女の背後から待つハゲワシ。あまりにも衝撃的な写真だ。子どもたちは、その写真を入り口に、飢餓、砂漠化、森林伐採、酸性雨、お温暖化について学びを広げ深めて言った。そして、ユニセフ・ユネスコに代表される活動を通して意日本の役割について学んだ。社会科学習のねらいからすると、妥当な学びであっただろう。しかし、私にはむなしさが残った。なぜならば、子どもたちは教科書に書かれている事実を学んだにすぎないからだ。もしかすると、「上から下へ」という思いを形成してしまったのではないか。それでは、どのような学びであったらよかったのか。私が展開した学習の最大の弱点は、自分(子ども)と題材(アフリカの現実)のかかわりはあったが、自分(子ども)と人(アフリカで生きる人)とのかかわりを築くことができなかったことだ。アフリカで生きる人たちが、今何を幹事。何を考え、飢餓や砂漠化と言った事実にどのように対処しているのか、その生の声を子どもたちに提供することはできなかった。
夏休みや冬休みを利用して、教師と教師、生徒と生徒、同世代・同業者が一定期間学び合うのだ。私たち日本人がアフリカ現地において、アフリカを実体験し、アフリカ人と語り合う。アフリカの人たちは日本において、日本を実体験し、日本人と語り合う。その体験と語り合いを通して、日本人は日本のよさと課題を、アフリカの人たちはアフリカのよさと課題を再確認する。そして、お互いの課題を解決するために日本はアフリカのために、アフリカは日本のために行動を起すのだ。一方から一方への支援ではなく、相互の支援を実現するのだ。そのことは、地球に生きる地球人としての一歩を踏み出すことになる。そこには、「上から下へ」といった支援はない。どうレベルでの学び合い、高め合いが実現するのだ。
「イコイの森で」
(原文のまま掲載しています)
マリオが運転するダットサンを捕まえられたのは、イコイ谷の入り口にある村で車を待って丸二日が過ぎ、諦めてランバレネへと向かおうとしていたときのことであった。
マリオはガボンのこの谷へ、材木を調達にやってきたマレーシア人だった。
2004年当時、私はアフリカを一周してやろうと、カイロから大陸の東側を南下した後、ケープタウンからアルジェを目指して西側を旅していた。イコイ谷に行きたがったのは、ガボン大使館のホームぺージに、その谷にはいにしえ色濃く残るとあったからである。
イコイ谷のジャングルは何処までも果てしなく続くかのようであった。大気には水と酸素を含んだ確かな重さと抵抗があり、そこに鳥や虫の声と木々のざわめきが絶えずバイブレーションを加え続けていた。私はマリオの助手でモーリタニア人のジャンと車の荷台に乗り込み、エンジンのものではないその振動を全身で受け止め、感動し、感謝していた。
「マレーシアの木は切りつくしてしまったんだ」
なぜこんなところまで木を切りに来ているのか?私の問いにマリオはそう答えた。材木として価値を持つような太い木は、東南アジアの森にはもう残っていないという。ここで切り出された木は川を下り、リブレヴィルから欧州諸国や日本など極東の国々へと運ばれていくのだそうだ。そんなものかと思う。あの豊潤に見える東南アジアの森にも、人間の活動を支える力は残ってはいないということが意外であった。
「ここに来てもう3年さ。この道をつくるところから始めたんだ。早く国へ帰りたいね」
翌日、彼らが前線基地へ向かうというのでついていくことにした。川を見下ろす高台に基地はあった。50mほどの川幅いっぱいに、丸太が浮かんでいた。スタッフが温かい食事と一緒に一冊の雑誌を持ってきた。ベネトンのアートデレクターであったオリビエロ・トスカーニ氏が撮影した原宿が特集されていた。ジャングルで東京の若者達に出会うとは。
「お前の国の若い連中はみんなこんな格好をしているのか?」
ほんの一部。と答えて、再び川の流れに目を移した。突然、風景の輪郭が太く、熱を含んで飛び込んできた。痛みと驚き、少しの後悔をもって繋がったのである。かつてアジアの森から供給され、今ではアフリカの森から供給される木材を消費し続け、いくつかの意味で先端をいく極東の小さな国のイメージと、目の前の現実が繋がったのである。
感傷的になる必要はない。しかし私はアフリカの自然環境に加えられる変化の末端に日本の社会が存在することを、肯定せざるを得ない立場において体験した。マリオの会社ではアフリカ諸国から集まったスタッフが働く。みんながんばっている。環境問題は善悪で割り切れないからこそ、皆で話し合い協議する場を持つことが大切なのではないだろうか。
学校教員
「我がクラスの歌はUnder the same sky」
(原文のまま掲載しています)
卒業遠足で訪れたディズニーシー入口で私は叫んだ「みんなで考えたアフリカ大陸はあんなに大きいんだ!」 そこには水溢れる青い地球が回転し、半球をアフリカ大陸が占めていた。面積だけを比較したなら日本は、ジンバブエ一国よりも小さい。そんな大きなアフリカのために日本ができることを生徒共に考えた。
地理的にも心理的にも遠いアフリカに対して、ネガティブな未来予想図であるならば、誰でもすぐにでも描ける。旱魃と砂漠化、エイズ・マラリア等の感染症の蔓延、稀少な鉱産資源をめぐる子ども兵士を巻込んだ紛争、難民やストリートチルドレン等の絶望的な貧困、これらをもとにアフロペシミズムを語ることは容易だ。
このアフリカの難問を前に「もう手遅れだ。今さら自分には何もできない。」と考えることを放棄したり、立ちすくんでしまう生徒もいた。また「これまで数々の援助を受けてきたにもかかわらず、事態が改善しないのは、アフリカ自身にも問題があるからだ。かえって何もしない方がいいんだ。」とアフリカ支援に批判的意見を述べる生徒もいた。
それでも「この痩せ衰えたアフリカの子どもたちを前に、私たちは何もできないのだろうか」 高校受験を前に自分のことだけで頭が一杯になっている生徒に敢えて問うた。
その中で生徒は「先進国の豊かさ追求が気候変動を引き起こしているのではないか」「気候変動はこれまで先進国が援助してきたもの全てを台無しにしてしまう」「気候変動の影響を真っ先に受けるのは最貧国だ」「先進国に生きる私たちの努力こそが、アフリカの人々が幸せに生きる未来を創造できる」「私たちは、今の豊かな生活から降りることも覚悟しなければならない」と地球規模の『気候変動』問題をアフリカ・日本と関連づけて論じるものが目立った。一年次から“Think Globally Act Locally”という名の社会科通信を発行し、自分の身近なところで何ができるか、自分にできることは何かと問うてきた中での回答であった。
特に豊かな生活から「降りる」という覚悟は、アフリカと日本とが同じ地球で生きているのだということを理屈でなく我が事として捉えたが故の回答であると私は確信する。
このような折、我がクラスの創作曲が音楽コンクールで優秀賞を頂くという栄誉を得た。曲名は“Under the same sky”という。その歌詞には「君も見ている この世界から 目をそらさずに 同じ空の下 ぼくたちは生きている つないだ手を離さないで 空がぼくらに強さをくれるから」とある。
次代を担う子どもたちは私たちの想像以上に未来を考えていると確信した。今後もこの子どもたちと共に持続可能な社会を築くための教育をしていきたいと心に誓う。
「俺が子供の頃は、ここにはゾウやライオンがいたんだ」目尻にしっかりとしわの刻まれたその老人のいう子供の頃とは、50年前くらいの話だろうか。老人の名前はハリドさん。67歳。西アフリカの内陸国、ブルキナファソの北部の村に住んでいる。さらに100kmも北上すればサハラ砂漠、という場所である。年間降水量300mmのこの地に、信じられないような話だがかつてはゾウが住める豊かな森があったのだという。それって本当?と聞き返してしまう。今は、見渡せば一面砂だらけで樹木が僅かに点在する土地。風がふけば砂がもうもうと舞い上がり、黄色一色の世界となる。なぜ森がなくなったのかと聞くと、「雨が減ったことと、人口が増えたこと、この2つが原因だね」という。
2年間の植林活動のボランティア。行く前は、果たして私が役に立てることがあるだろうかと不安だった。少なくとも、私が一日1本植えれば700本植えてこられる、と考えて現地に向かったが、それはとんでもない誤算だった。苗木を植栽できる期間は1年のうちで約2ヶ月。工業製品の工場のようなわけにはいかない。体当たりの2年間。「日本人は真面目だな」とよく笑われた。ブルキナ人は約束に1時間も2時間も平気で遅れてきていい加減すぎるだろう、と私は文句を言う。でもまあ、ブルキナ人のこのおおらかさや、生きることへのたくましさが私は結構好きだ。
この村に以前のような、ゾウやライオンのいる森を復活させるにはどうしたらいいかな、とハリドさんに尋ねてみた。「もうムリだね」とハリドさんは言う。よほどのものすごい大雨が毎年降るような気候の変化がない限り、この村に森が戻ることはないだろう、人口はどんどん増えるしな、と。悲しい話を聞いたと思ったが、そこでハリドさんは顔をほころばせた。実は、今月また村の人口が一人増えたんだ、見てくれよと、小さな赤子を抱いた若い女性を紹介された。あっお孫さん?と聞きそうになって私は言葉を飲み込んだ。「先日生まれたばかりの俺の10人目の娘だよ」。ハリドさんは67歳。20歳かそこらにみえるその赤子の母親は、ハリドさんの4人目の奥さんだそうだ。日本に生まれ育った私にとってはとんでもないシステムに思えるが、とにかくよくある一夫多妻制。かわいいだろ、と抱き上げるハリドさん。本当にかわいい赤ちゃんだった。
それでもな、とハリドさんは言う。「やっぱり地道に木を植えること、啓発活動をすること、この2つをしていかなきゃいけない。森は元には戻らなくても、それが無意味だとは思わない」。10人目の子供が大人になったときのためにも俺は木を植えるよ、と豪快に笑うハリドさん。こんなたくましさが、やっぱり私は好きだ。
四年前子どもが小学校に入学するに当たって、マイカーを買い替えた。そのときまで乗っていたのはコンパクトカー。息子が産まれたのに合わせて買った車で、子どもの初めての遠出に使ったり、幼稚園への送り迎えにフル活動したりして思い出の多い車だった。
自動車販売店で、古い車と交換に新しいセダンの引き渡しを受けることになった。新者との対面はうれしかったが、古い車との別れは寂しかった。同じことを思ったのか息子が「この車はどこへ行くの?」と尋ねてきた。
中古車の行く末など知らなかった夫や私に販売店の営業マンが助け舟を出した。この車は船に乗ってアフリカに渡るかも知れないよ。ライオンやゾウたちと仲良く暮らして行くから、独りぼっちにはならないよ」。息子は納得したらしく「じゃあこの車は寂しくないんだね」と笑顔を見せた。
営業マンの機転を効かせた説明には感謝したが、息子とは逆に私の中に納得できない気持が芽生えてきた。
営業マンが後で私たちに説明してくれたところによると、アフリカ向けに輸出される車は「走行距離が二十万キロを越えていてもちゃんと売れる」のだという。帰宅してインターネットで調べてみると、確かにそれらしき記述が見られた。日本で売られる中古車よりもずっと長い距離だ。
モノを大切に使うのはよいことだ。ただ、車の場合は排ガスという環境にかかわる問題が絡んでくる。走行距離が長い車は古い車である。日本で環境規制が緩い時代に作られた車や、大気汚染物質を出さない止めの機能が壊れた車も輸出されていないのか。そんな車ばかりが輸出されていく中でアフリカの空気は確実に汚れていくのではないか。
もう一つの懸念は、アフリカで故障し動かなくなった車は最終的にどうなるのか、ということだ。日本の自動車メーカーのサービス網もなくはないだろうが、きっとそれは新車か年数の浅い車の修理を前提としたものだろう。壊れた中古車をなおすための技術者も充分確保されているとは思えない。
アフリカで壊れた日本の中古車は現地で産業廃棄物になっていくのだろう。いったいそれは誰が処分するのか。アフリカの大地にスクラップの山が重なる様子が想像された。
こんな風に考えると、私達の幸せを支えたマイカーが、最終的にはアフリカの環境を壊している面も否めない気がする。たまたま車から想像を広げていったが、他のことでも日本人の暮らしがアフリカの環境をどこかで壊しているのではないか。
日本の自動車メーカーはエコカーの開発に熱心だ。これは大切なことだ。これに加え、アフリカなどに輸出する中古車の環境対応や安全性向上にも取り組んで欲しい。日本の家族を幸せにしてくれたマイカーが遠いアフリカの大地でも、現地に住む人を幸せにして欲しいと願わずにいられない。
私は小さかった頃、父の仕事の関係で五年間、南アフリカ共和国に住んでいた。まだ幼なかった頃であったから詳しいことはあまり覚えていないが、楽しかった生活であったことなど良い思い出しか残っていない。でもそれは、家族に守られていたからだったと思う。でもそんな考えは甘く、現在でも、強盗、殺人は昼間から行われ、日常茶飯事で、停電もよく起き、政治も不安定だ。しかし、最も深刻なのは貧困だと思う。現在、アフリカで一日一ドル以下で生活している人は全体の約四十パーセント以上で日本よりかなり多い。また貧困は、アフリカの不安定な現状の最も根本的な原因の一つだと思う。貧困が広まると、食糧などを求めて強盗や犯罪などが起き、また、それらが起こると人びとの中に不安や混乱などの気持を引き起こして、ますます、情勢を悪くするからだ。
私は日本で生まれ、日本で育ち、特に不自由な生活はしたことがない。アフリカで滞在していた間もそうだった。日本に住んでいる多くの人もそんなに不自由な生活をしている人は少なくないはずだ。だからあまり、一日一ドル以下の生活は想像ができないが、ニュースや新聞を読んで見て、その苦しさ、大変さはとてもよく伝わってくる。何とかしなければいけないと、とても強く感じる。私一人がアフリカに行っても、今のままではできることは少ないだろう。だが技術の進んでいる日本なら、できることも多いはずだ。現在でも日本はアフリカに、色々な経済的な援助をしている。だが、金銭的な寄付だけではあまり変わらないと思う。病院での手術などの技術・道路整備や、学校の教育向上の為にも、お金だけではなく、物、人を派遣する必要があると思う。また日本だけではなく私達一人一人にもできる事があるはずだ。例えば私は貧しい子供達の為に使わなくなった鉛筆やノート、消しごむなどの文房具類や、小さくなって着れなくなった洋服などを集めて送っている。小さなことだけれども、多くの人がやればやるだけ、貧しい子供たちを一人でも多く救ってあげることができる。また、私たちの中でも、物を大切に使おうとする気持ちが生まれてくるのではないか。
アフリカの貧困が良くなれば、エイズなどの病気に感染する人も減少し、犯罪も少しは減るのではないかと思う。またそういった社会を実現する事で全ての人が信頼しあえる世界をも創り出すことができるのではないかと思う。